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[無名の英雄ナースヒストリー file.03] ヘレン・フェアチャイルド

[無名の英雄ナースヒストリー file.03] ヘレン・フェアチャイルド

今月の無名の英雄ナースヒストリーは、悲しく、勇敢なナース、エレン・フェアチャイルド(以下ヘレン)についてご紹介しましょう。彼女の看護師人生は、戦争の中に始まり、戦争の中で終わります。ヘレンは世界大戦の30年前11月21日1884年アメリカペンシルバニアのミルトンに生まれました。彼女の兄は医者で、彼女がナースになる道を選んだ理由のひとつでもあったようです。

開戦間もない1913年にペンシルベニア州の病院から看護師として卒業し、トレポーにおける10号基地病院に到着後、1916年にアメリカ陸軍ナース隊に参加し、1917年には、パッシェンデールの戦い(第1次世界大戦中の西部戦線)に従軍しました。

化学兵器の恐ろしさとは

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そこでマスタードガスに晒された瀕死の兵士達の看護にあたったのです。マスタードガスは当時使われていた化学兵器のひとつで、皮膚をただれさせ、消化管障害、発がん性のある非常に毒性のつよい兵器でした。自分のガスマスクを兵士につけさせたという記録があるほど勇敢だったヘレン。

しかしその勇敢さは彼女の命を縮めることになってしまいます。マスタードガスと過酷な労働環境はヘレンの体を次第に蝕んでゆくのです。

手紙に込めたヘレンの思い

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後に兄の娘、ヘレンの姪ネリー・フェアチャイルドがヘレンからとどいた母や姉への手紙を公表しています。その中には、過酷な従軍生活と家族への愛が記されていました。その一部をご紹介します。(長文のため一部省略しています)

1917年5月8日(土曜日)ペンシルバニア病院

兄妹へ。

月曜日に、政府から金曜日までに海外(フランスの戦線)に行く準備をするよう、通達の電報を得ました。私はどこへ行くのも感謝をしています。しかし唯一お母さんの心情を察すると同情します。私の身に何か起きてもすぐに知らせがいくので、どうか心配しないでと、伝えてください。

姉さんへ深い愛を込めて。

1917年8月 クリア駅4番より(パッシェンデールの周辺)

愛する母へ

私は前線に近い基地病院で手術チームとして働いています。私が家へ帰ったらここでの経験について伝えることが沢山あることでしょう。

ここにきて(クリア駅)3週間がたちますが、最初は3日間程度と予想していました。持ち物は2枚のエプロンと作業用ドレスだけ。ほぼ毎日雨が降っています。テントは湿り、足首よりも高い泥の中に立って手術室へと歩いて渡ります。

ここまで、100マイルの道のりをフランスを通じて自動救急車で来ました。ああ、私が家に帰るときにこの話を伝えなければ。

ヘレンより

1917年12月28日 基地病院第10号より 最後の手紙

愛する母へ。

私の病床は、沢山のお花、フルーツなどで満たされています。家から遠く離れていることは残念ですが、友人が甲斐甲斐しく看病をしてくれています。彼女こそ真の友人です。

主治医は私が飲んでいる薬を一部やめようと言っていました。喉はとても良くなったけれど、まだ勤務はできません。

ジー(母の名前)、私はこの戦争が終わったら嬉しいですが、と同時に貧しい兵士や少年たちを助けるためにここにいることを、嬉しくも思っています。赤十字とYMCA※1が私たちのためにやってくれていることは、とても意味があります。軍が得る喜びの大半は、YMCAが提供するものです。

赤十字によって私達に送られた物資がなければ、半分も彼らのための看護をできなかったでしょう。そちらで、私についてどんなことを話していますか?教えてください。すでに知っているように私に何かが起こったら必ずお知らせがいきます。安心して。

深い愛を込めて。ヘレンより

ワシントンDC 陸軍省公衆衛生局長官_

この手紙を最後に、ヘレンは亡くなりました。32歳でした。過酷な環境でもヘレンの勇敢で寛大な姿勢を貫いたヘレンから学ぶことは沢山あります。

”自らがどんな過酷な状況にいても、患者こそ一番弱く、助けられるべき当事者なのだ”

※1 YMCAキリスト教青年会 1844年に奉仕組織として設立されたのが始まり。現在は約120ヵ国で独立した組織として教育や福祉の活動をしている。

Medicatessen 編集ディレクター / ライター

中尾 妙

クリエティブで医療をもっと素敵に、楽しくできるヒトコトモノをいつも探しています。手芸と映画が大好きで、最近は2人娘のママ業しながら、紙やウェブの制作ディレクターもやってます。

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